【速報】ノムさん、逝く・・・「なんjは今日1日を喪に服せ」「ガチでかなしい」「グッバイノッム」「サッチー逝って寂しかったんやろなぁ・・・」
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野村 克也
野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 -2020年2月10日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。血液型はB型。愛称は「ノムさん」「ムース」。
南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任し、現在は野球解説者・野球評論家・タレント。日本体育大学客員教授も務める。
現在は歩行が不安定で車椅子を使用しており、ヤクルトの球団設立50周年を記念したOB戦「オープンハウス presents スワローズ ドリーム ゲーム」にて、真中満、川崎憲次郎、古田敦也に支えられバッターボックスに立った。2020年2月10日、静かに息を引き取った。84歳没。翌日に野村の訃報が報じられた。
選手としては、史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持つ[1]。また、監督としても「平成」(1989年1月8日~2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持する。 1963年に記録した52本塁打は後に1985年に落合博満も記録するが、その落合と並んで日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録である[2]。
通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録している球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。
前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがある。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。
プロ入り〜レギュラー定着
1954年、南海に契約金0のテスト生として入団[注 1]。当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局、一年目は9試合で11打数無安打だった。この時代、まっすぐ投げることができていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。
大選手への道/三冠王
ある時、現代でも正体不明の野村克也のファンが本を送った。その時は取り立てて意識しなかったが(打撃は好調だった)、野村の弱点はカーブ(変化球)に点で弱いことをしられてからかなりの打撃不振に陥た頃、ファンの送ってくれたテッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に真剣に向き合い、その中で「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになりスランプを克服した(ちなみにこの本は日本で出版されたのは1978年のことである。その南海のファンでもなく阪神ファンである医師の謎のファンは原板をガリ版にして翻訳してコピーして当時の野村に渡した)。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。このことが後に野村本人が確立するID野球の基礎となった。
1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した[注 2]。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。
しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった[注 5]。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった[11]。
捕手としての駆け引き
捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、今度は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更した。東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという[12]。
オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。
引用・出典:
Wikipedia -野村 克也
訃報:プロ野球の野村克也元監督が84歳で亡くなったことがわかりましたhttps://t.co/23pXWYUu9G
— Twitter モーメント (@MomentsJapan) February 11, 2020
なんjは本日喪に服すようにこれは命令や

なんで警視庁やねん
多分病院で死んでないから検死したんやろ
まじか…
でもまだまだ生きとってほしかった
ほんまに悲しい
この前まで元気そうだったやん
悲しすぎる
シワシワになっちゃってたもんなあ
テレビ見ろや