明智光秀って本能寺の変を起こした時どういうプランがあったの?『やってみた感』『変後の見事なグダグダっぷり』『最初で最後のチャンスだったとも言える』
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本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である[12]。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた[12]。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した[13]。これにより織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。
本能寺の変の経緯
6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した[93]。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時ごろ(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野[注釈 28]に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時ごろ(酉の刻)のことであった[127]。
光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである[135]。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝[注釈 29]が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ[136]、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」[137]を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである[3]。
6月2日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した[139][141]。これは戦闘準備を意味した。明智軍に従軍した武士による『本城惣右衛門覚書』によれば、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」[8][142]という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。
6月2日曙(午前4時ごろ[143])、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている[144]。
『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか[93](こは謀反か。如何なる者の企てぞ)[145]」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます[93](明智が者と見え申し候)[145]」と報告するので、信長は「やむおえぬ[93](是非に及ばず)[145]」と一言いったと云う。
戦後、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった[3]。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった[144]。
後世、光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある[155]。
本能寺の変の動機
本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな転換点となった事件であり、小和田哲男は戦国時代における最後の下剋上と評している[220]。
信長を討った光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が明らかにされることはなかった[221]。
更に光秀が送った手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。小和田は「日本史の謎」と表現している[222]。「永遠のミステリー」といった表現が行われることもある[223]。
引用・出典:
Wikipedia – 本能寺の変
結果は最悪だったが信長亡き後どういうプランを描いてたと思う?
これ
本能寺の変がそのタイミングだったと
いつでも兵は動かせる準備はしていたはず
これだけ条件の整う場なんて計算できない
でなければ、あんなに直ぐに兵は集まらないし、裏切る家臣もいるだろ
毛利攻めの援軍を頼まれていたから、たまたま集まったわけでもなく謀叛のために集めたわけでもない。
知らない
本能寺に行くまで敵が誰かも知らなかった
絶対知らない
事前に部下に知らせてこれはいかんと一人でも離脱して信長隊に伝えに行ったら
待ち構えた信長に一喝されて光秀なんもできずに処刑だろ
部下には何も言わなかったので知らなかったはずだが、仮に本能寺に行く直前に知ったとしても
本能寺にいたのは数百。明智軍は13,000だからどうにもならなかっただろう。
兵士の記録が残ってる
攻めてる時ですら何を攻撃しているのかわかってなかった
・秀吉じゃない誰かが黒幕説
・信長自演説
・光秀濡れ衣説
本能寺って日本史最大のロマンよな
信長がまったく明智を疑っていなかったこと
信長の上洛時にまったく無警戒に本能寺に泊まっていたこと
信忠もその近くにいたこと
光秀は信長に媚びへつらうのが上手かったとか宣教師に言われてるからなw
信長が怠慢な部下にブチ切れてる時に涙を流して同意してたとかエピソードがある
諸説あるが
信長への遺恨説はほぼ消えてるから誰かと結託してる説は実際根強い
結託してるんだったら変後のグダグダが説明できない
親戚の細川にすら相手にされてねーのに
うん
実はおれも突発的にやったことだろうと思う
ただし成功するにはここしかなかったと考えていたと思う
時は今って読んでるから突発的ではないよ
長宗我部の一件以降ほとんと失脚状態
しかもかなりの高齢だからね
その後の動きはさほどでもない上に
秀吉の天才を過小評価してた事が運の尽き
負けるべくして秀吉に敗れた
秀吉にバレていたんだろうな
そんなタイミングよく出来るわけ無いじゃん。
高松城から秀吉は戻る時に先々の村や町で金をばら蒔いた
金をやるから食料をくれとな
それでペースを維持したまま行軍できた
言葉が足りん
先行者を先に行かせて村々に食い物や水を用意させていたから
本隊はマラソンの補給のように止まることなく補給ができたって話な
秀吉は頭がキレる
信長が来る予定だったから信長本隊用に食料とか宿とか準備してたらしいな
大返しはたまたまそれを利用したにすぎない
秀吉は、天が秀吉を天下人にさせようとしたと黒田勘兵衛が評するぐらいツイてたからな。
本人の才能と努力と体力もさることながら、運がラッキーマン並。
光秀「殺ってみた」
そのまま京都入って、天皇から認めてもらう
それによる諸大名の雪崩を打った、
「右にならえ」を期待してたに違いない
義経みたくまずは官位をもらって
権威付けしたくなるはずだ
少なくともそれ以後国盗りゲームを
延々やるつもりは無かったか、
それは信長にこの恨みを晴らしてから考える、
みたくなってたと思う
信長殺害後、後継者争いが勃発
仇を討った者が後継者になるまでは
予想がついていたのでは?( ・∇・)
それを考えると、どうみても信長殺害は貧乏くじでしかない( ・∇・)
それでも討ったということは、
信長殺害自体が目的だったと考えることが正しい( ・∇・)
つまり、他に共犯者がいる訳で、
殺害担当;明智
天下取り担当の共犯者がいる訳だ・・・・( ・∇・)
その共犯者に聞けばいい。
信長の首はどこにあるのか?ってね( ・∇・)
こまけーことはいいんだよ
たまにいるじゃんそういう人
アウェイな
ただのぱりぴだったのか
完全に衝動的
だって本能寺にロクな兵士もなく、信長と嫡男・信忠がいるチャンスなんて二度と無いだろうからな。
二人の内、どちらかが生きていたら、反撃でやられる。
二人同時に始末するのは、この時しか無かった。
その意見に賛成
想定外の好機が巡ってきたので、あわてて実行に移した
それじゃ信長がバカみたいじゃないですか
場所的には同時と言えなくもないが、時間的には同時でもないよね?実際かなり逃げた奴いるし
光秀がそれだけ信用されてたってことなんだよな
佐久間信盛を追放したのが失敗だったね。信盛にそのまま畿内を任せておけばよかった。信盛は譜代で追放されるまでは信長の信頼も厚い家臣だった
元々、無防備な所が有るからな。
武田征伐を成功させた後、現地で軍団を解散させて、少数の供回りだけで徳川家康の領地へ行っているし。
家康がその気なら、信長の首を取れるチャンス。
若い頃から浅井朝倉滅亡ぐらいまでは勝機と見るや先頭に立って敵陣に切り込んでいって部下がついていけなかったぐらいだからね
基本的に無謀、無防備な人ではある
くらいの感覚だと思うが
衝動的に人殺しする奴と同じ
かっとなってやってしまった
現代と変わらんな
いや、俺は言われないからわからんが
よう、ハゲ
柴田や秀吉をゆっくり料理
は?
東のフェニックス小田と並び称される西の筒井順慶が特定の個人に媚びるわけねーだろ
歴史ある奈良大和郡山をなめるなよ?
信長麾下の諸将との連携もそうだけど、家康に逃げられたのも大きいし、京都から西国への街道も抑えてないのもミスだわなぁ。
事を起こす直前に家康を囲ってしまうのと、情報が西国に漏れないように街道に関所設けておけば秀吉の大返しも遅れるから、時間稼げてもうちょっと違った未来はあった気はする。
まず何するつもりだったんだろうな
【悲報】ワイ筒井、洞ヶ峠を決め込む