拷問とかいう人類が作り出した歴史の闇『ファラリスの牡牛』『眉間に水という一見優しげな拷問』『八つ裂きってほんまに裂けるん?』
.電脳デカダンス / 2ちゃんねるまとめ / なんJまとめ / ゲーム / サブカル / ライフハック / 人生、宇宙、全ての答え / 学問・芸術 / 技術・テクノロジー / 映画 / 歴史・時代 / 海外の反応 / 画像スレ / 都市伝説・オカルト / 雑学・知識 / 面白ネタ
拷問
拷問(、英: torture[1])とは、被害者の自由を奪った上で肉体的・精神的に痛めつけることにより、加害者の要求に従うように強要する事。特に被害者の持つ情報を自白させる目的で行われる。
拷問によって得られた情報は重要であると考えられ、洋の東西を問わず古来から広く行われた。拷問は尋問と組み合わせて用いられることが多く、対象者から情報を引き出すために肉体的・精神的な苦痛によって追いつめていき、自白させる。多くはいくつかの原則に則って行われるものであり、自白と引き替えにすぐに苦痛を和らげることで対象者に機会を与え、自白への誘惑をより一層強める。国際連合の「拷問等禁止条約-拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」において、世界的に禁止されている[2]。
現在では国際的に絶対の禁忌として厳しく禁止されているが、完全禁止が法制度化されたのは19世紀になってからであり、古代ギリシャ・ローマ時代においては主人が奴隷に対し拷問を行う事が許可されていたなど、合法的に行われていた。
現代でも拷問の実行が噂される事例もある、例えばアメリカ軍がベトナム戦争時に行ったベトナム人への拷問や虐待が暴露され、国内外から批判が起こり、アメリカ軍がベトナムから撤退する要因のひとつともなった。また、2008年にアメリカで「ウォーターボーディング」が拷問に当たるかどうか議論となり、水責め尋問禁止法案が出されるなど議論を呼んでいる。現代においても、尋問で簡単に自白が得られる保証は無く、法律違反ぎりぎりの尋問(睡眠の妨害など)が行われることがある。
引用・出典:
Wikipedia – 拷問
ファラリスの雄牛
ファラリスの雄牛(ファラリスのおうし)とは、古代ギリシアで設計されたという、処刑のための装置である。
シチリア島アグリジェントの僭主であったファラリスは、目新しい死刑方法をとりいれたいと思っていた[1]。アテナイの真鍮鋳物師であったペリロスが、それにこたえてこの装置を考案し、ファラリスに献上した。
真鍮で鋳造された、中が空洞の雄牛の像であり、胴体には人間を中に入れるための扉がついている。受刑者となったものは、雄牛の中に閉じ込められ、牛の腹の下で火が焚かれる。真鍮は黄金色になるまで熱せられ、中の人間を炙り殺す。雄牛の頭部は複雑な筒と栓からなっており、苦悶する犠牲者の叫び声が、仕掛けを通して本物の牛のうなり声のような音へと変調される[2]。
ただし、ディスカバリーチャンネルの番組でこの器具が検証された際、当時の金属精度や技術力では人を殺傷せしめる程の温度上昇は不可能で、器具の実在自体に疑問を呈していた。また実在しても処刑器具としての役割は果たせなかったであろうとしている[要検証 – ノート]。
ファラリスは、雄牛本体と音響の効果を製作者であるペリロスに自身で「試せ」と命令した。この命令が残酷な罠だとは思いもよらなかったペリロスは、命令通りに雄牛の中に入って調べはじめた。ファラリスはこの機会を狙って雄牛の鍵を締め、火をつけた。悶え苦しむペリロスの叫び声が雄牛のうなり声となり、ファラリスはペリロス自身による「試し」を確かめることになった。ペリロスは自身が製作したこの雄牛の最初の犠牲者となったのである。
八つ裂きの刑
八つ裂きの刑(やつざきのけい)とは世界各地で行われていた死刑の執行方法の一種[1]。被処刑者の四肢を牛や馬などの動力源に結びつけ、それらを異なる方向に前進させることで肉体を引き裂き、死に至らしめるものである。古代ギリシャでは、「ディアスフェンドネーゼ」(松の木折り)といい、たわめて固定した2本の木の間に罪人を逆さ吊りに縛りつけ、木が元に戻ろうとする力で股を裂く方法も用いられた[1]。最も重い死刑の形態であり、酷刑として知られる。恐怖の馬走としても知られる。
四つ裂き・車裂き、馬走とも呼ばれ、総称して引き裂き刑と呼ばれるが[1]、中世ヨーロッパの「車裂きの刑」は引き裂き刑とは異なるものを指す。馬走は、足のみに括り付け人体を二分する刑のことでもある。
中世フランスの Écartèlement は、最も重い死刑の形態であった。Écartèlement は、フランス語や英語において「バラバラにすること」を意味する言葉である。フランスの刑罰では、人体を両手・両足・胴体に5分する方法になっている。これに対して適当な日本語訳として、通常「八つ裂き」が充てられている。
ロベール=フランソワ・ダミアンは、ルイ15世の殺害を図って捕らえられ、1757年3月27日に八つ裂き刑に処せられた。この時の様子は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが詳細な手記を残しているため詳しく分かっている。
ダミアンはまず寺院の前に連行され、そこで罪を告白する公然告白が行われた。この後グレーブ広場に連行され、処刑台の上に上げられると、まず国王を刺した右腕を罰するために右腕を焼いた。次にペンチで体の肉を引きちぎり、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込んだ。次に、地面に固定されたX字型の木に磔にされ、両手両足に縄を結ぶと、それらのもう一方の先を4頭の馬に繋いだ。これを号令とともに馬たちが一気に4方向に駆け出すことでダミアンの体から四肢を引き裂こうとしたのだが、そう簡単には行かなかった。
この手順を1時間に3度も繰り返したが、ダミアンの体はびくともしない。そこでサンソンは判事の許可を得て、四肢の付け根に切り込みを入れた。すると次の回ではまず最初に片脚がもぎ取られ、次にもう片方の脚ももぎ取られ、続いて右腕が引き裂かれた。ダミアンはこの時点で絶命していた。バラバラになったダミアンの遺体はその場で火葬に付された(西欧では通常死者は土葬される)。
加虐快楽目的はほんと闇
実際は使われてないらしいな
鉄の処女
鉄の処女(てつのしょじょ)は中世ヨーロッパで刑罰や拷問に用いられたとされる拷問具。「空想上の拷問具の再現」とする説も強い。
ドイツ語では「アイゼルネ・ユングフラウ(Eiserne Jungfrau)」、英訳は「アイアン・メイデン(Iron Maiden)」、または「ヴージェノヴ・ニュアレンバーグ(Virgin of Nuremberg)」(「ニュルンベルクの処女」の意味)と表記される場合もある。
聖母マリアをかたどったともいわれる女性の形をした、高さ2メートルほどの大きさの、中が空洞の人形である。前面は左右に開くようになっており、中の空洞に人間を入れる。木製のものがほとんどである。木製のものは十分な強度を持たせるために肉厚な構造になっているが、鉄製のものは比較的薄いため、写真(上)でも判別できる。左右に開く扉からは、長い釘が内部に向かって突き出しており、本体の背後の部分にも釘が植えられているものもある。犠牲者の悲鳴は外に漏れないように工夫されていた。
罪人はこの鉄の処女の内部の空洞に入れられ、扉を閉じられる。同時に扉の部分にある多くの棘に全身を刺される。現存するものは釘の長さが様々で、生存空間はほとんどないようなものから、身体を動かせば刺し傷で済みそうなものまでがあった。罪人が死亡した後に、前の扉を開けることなく死体がそのまま下に落ちるように「落し扉構造」があったという噂を記述した文献がある。
「中世の拷問具」として博物館にも展示されている鉄の処女であるが、実際に中世にこのような拷問具があったかどうかに関しては、その実在を疑う研究者も多い[要出典]。その存在を記述したものが19世紀のロマン小説や、風聞に基づくものばかりで、公的な資料や記録が皆無だからである。実在説の論証とされる、欧州各地で展示されている実物も、ほとんどが19世紀半ば以降の再現品である。ニュルンベルクの鉄の処女も、19世紀に作られたオリジナルは空襲で焼失している。現存する鉄の処女はすべて18世紀末以後に作られたものであり、伝説で語られている中世のオリジナルは存在していないのである[1]。
鉄の処女には、ハンガリーの伯爵夫人バートリ・エルジェーベトが作らせたものとする伝説がある。メイドの少女がエルジェーベトの髪を櫛でとかしていた所、櫛に絡まりついた髪を誤って引っ張ってしまった。激怒したエルジェーベトは、髪留めでメイドの胸を何度も突き刺し心臓をえぐった(鉄の棒で殴り殺したという説もある)。返り血がかかった手を拭うと肌が金色に輝いたように見えたため、エルジェーベトは「処女の血を浴びると肌が綺麗になる」と思い込み、配下の者に命じて村中の処女を集めさせた。その血液を絞り取るために特別に作らせた器具が鉄の処女であるとされる。
その後エルジェーベトの鉄の処女は改良され、搾り取られた処女の血液は管を通してバスタブへと注ぎ込まれる細工が組み込まれた。犠牲者が死んだ後に棺の扉を開けると棺の床が抜けて死体は水で城の外に流されるようになっており、そのための水路には刃物が設置されていたので、死体が城外に出る頃には原形をとどめていなかったという。しかしこれはあくまで風説のレベルに過ぎず、実在を示した証拠は何もない。
引用・出典:
https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄の処女
二度とうんこ出来なくなっちゃう
一番苦しい死に方は笑い死にって言うやつもおるくらいやしな
ヴラドおじさんは他国への見せしめだから(震え声)
ヴラド・ツェペシュ
ヴラド3世(Vlad III , 1431年11月10日 – 1476年12月19日)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または串刺し公(Vlad Țepeș / トルコ語: Kazıklı Bey)は、15世紀のワラキア公国の君主(ワラキア公)。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、オスマン帝国と対立した。
日本ではしばしばヴラド・ツェペシュと呼ばれるが、「ツェペシュ」は姓でもミドルネームでもなく、「串刺し公」、原義では「串刺しにする者」を意味するルーマニア語の異名、すなわち「ドラキュラ」と同様にニックネームであって、名前は単にヴラドである(呼び名の節を参照)。ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルの一人として知られる。現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されている。
日本語においては「串刺し公」を意味する「ツェペシュ」を音訳で用い、ヴラド・ツェペシュと呼ばれることが多い。存命時はむしろ「ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く用いられたのではないかといわれる。本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(正確にはラテン語表記でWladislaus Drakulya、ヴラディスラウス・ドラクリヤ)と書かれたものが存在するため、ドラキュラというニックネームは本人も好んで使用していたと推測されている。
トランシルヴァニアやモルダヴィアとは複雑な関係であり、ワラキア領内での粛清も多く、ヴラドはオスマン帝国軍のみならず自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる。串刺し刑はこの時代のキリスト教国、イスラム教国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。しかしヴラドの特殊性は、反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。通常、貴族の処刑は斬首によって行われるが、あえて串刺しという最も卑しい刑罰を課すことで、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。
ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士であり、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。このカズィクル・ベイのルーマニア語訳がツェペシュである。また、今日の異常者というイメージは後述するハンガリーによるプロパガンダの影響が大きい。
あれ狂うって本当なんかな?
人間の残虐性の歴史って感じしてほんますこ。
夜中に読みふけってしまう