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なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?『元寇でもモンゴル軍に圧勝』『鎌倉武士がヤベーからな』

 

元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった[48]。

引用・出典:
Wikipedia – 元寇

(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「非株式会社いつかやる」より – https://www.youtube.com/embed/zWxTCVDX0Zg)
(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「非株式会社いつかやる」より – https://www.youtube.com/embed/roNxXutMmD4 )

文永の役までの経緯

モンゴル帝国による高麗侵攻は1231年(寛喜3年、太宗3年)から始まり、1259年(正元元年・モンケ9年)、反モンゴル帝国急先鋒の武臣政権が倒れたのをもって、高麗はモンゴル帝国に降伏した。

翌1260年(文応元年・中統元年)、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアンは、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する[53]。高麗への懐柔策の採用は、日本侵攻に高麗を協力させるためだったとされる[53]。

クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する[119]。

1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[138] 15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[12]。

なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[17]~300艘、上陸用快速船艇のバートル(抜都魯:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[18]。

対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。

引用・出典:
Wikipedia – 元寇

1: 名無しさん 2013/09/30(月) 22:21:26.24 0
モンゴル帝国に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇った
鎌倉時代の日本。
広大なユーラシア大陸の諸民族が極東の島国に過ぎない日本に
軍事面の進歩で後れを取った理由は何か?

11: 名無しさん 2013/10/01(火) 11:29:08.02 0
指揮官が中国人で兵士が朝鮮人の元寇なぞ撃退できて当然じゃね
あれが指揮官がチンギス一族の誰かで兵士が蒙古・西域人だったら
正真正銘の本土決戦だったろ

12: 名無しさん 2013/10/01(火) 12:04:52.82 0
>>11
元寇は指揮官がモンゴル人で兵士がクビライの親衛隊という超精鋭だよ。
クビライもわざわざ自分の娘を元寇に合わせて高麗王に嫁入りさせてるわけで
帝国の威信をかけた戦いだって示してる。
つまり元寇は正真正銘の覇権国決定戦。

13: 名無しさん 2013/10/01(火) 16:40:38.26 O
世界最強とは思わんけど武士のモチベーションの高さは良く分からないかなあ

14: 名無しさん 2013/10/01(火) 21:32:21.90 0
南宋のから情報は何年も前から来てるので
モンゴルに対する危機感は凄かったらしいね

19: 名無しさん 2013/10/02(水) 02:05:34.40 0
ならなおのこと幕府軍が強いってことか

20: 名無しさん 2013/10/02(水) 02:37:20.53 0
この時代、朝鮮製の船で海を渡って来る側は不利

25: 名無しさん 2013/10/02(水) 07:54:25.86 0
武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐は単なる動員令だろ。
もともと何の目的で高麗遠征を行うのかは書かれてないわけで、
南宋情勢との関連が書かれてないのも当然じゃん。
当時の状況考えたら南宋滅亡以外に理由は考えられないよ。

28: 名無しさん 2013/10/02(水) 08:26:32.03 i
高麗征伐が三月に計画されてたから、一月に南宋が
滅亡したゃったんで止めたんだろうな。

25のいう通り、高麗征伐を実行しても江南方面からの
モンゴル軍の侵入は南宋滅亡で防げなくなって、高麗征伐
自体価値が無くなってるし。

30: 名無しさん 2013/10/02(水) 13:14:00.92 0
>>28
当然中国、日本それぞれにおいて日宋同盟による
作戦計画についてのソースはあるんだろうな。

39: 名無しさん 2013/10/03(木) 19:59:13.03 0
>>33
「其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。」
『元朝名臣事略』

もともと日本とモンゴルの外交も南宋戦の進行状況を睨みながら行われていた。
鎌倉幕府が最終的に返書拒否したのも南宋との関係があったから。
だから、高麗遠征が中止になったのも南宋情勢の激変が原因としか考えられない。

41: 名無しさん 2013/10/03(木) 20:23:08.95 0
>>39
弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか
南宋は全く関係ないんだが(笑)

42: 名無しさん 2013/10/03(木) 20:35:01.49 i
>>41
つまり文永の役の後で高麗遠征が中止になったのは外洋遠征能力の問題じゃないっことだな。
外洋遠征能力の問題なら弘安の役の後でまた高麗遠征の話が出るわけないからな。

43: 名無しさん 2013/10/03(木) 20:35:18.41 0
>>41
一概に関係ないとは言えないよ
幕府は引き続き間諜を出してる
弘安の役では南宋の艦隊は壊滅したけど高麗艦隊は7割くらい生還してる
つまり3次侵攻があるとしれば次ぎの拠点は
高麗からだと判断したんじゃない?
だとすると高麗の艦隊を先手を打って攻略するのは戦略として常道じゃん

29: 名無しさん 2013/10/02(水) 09:41:46.70 0
秀吉のように大陸深部まで進攻する計画ならともかく
ただ高麗を潰すだけでは幕府にとってメリットは少ないな

32: 名無しさん 2013/10/03(木) 12:21:05.56 0
日本に攻め込む選択肢を増やすために南宋を滅ぼすとか
蒙古帝国の世界戦略はスケールでか過ぎだろw

40: 名無しさん 2013/10/03(木) 20:06:41.41 0
>>32
でも、それがモンゴル帝国のもともとの対日戦略なんだよ。

1269年11月に枢密院で行われた議論
「馬亨はまた述べた『(前略)日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、
また同じ意味だ。
南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って
平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。
全勝の策である。
今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』
他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」

35: 名無しさん 2013/10/03(木) 14:25:49.76 0
とにかく海戦に弱いモンゴル人

37: 名無しさん 2013/10/03(木) 15:24:25.50 0
弘安の役は南宋を破ったとゆうか南宋を裏切った蒲寿庚の仕込みだし
本気だよね

38: 名無しさん 2013/10/03(木) 17:33:29.59 i
南宋滅ぼされたのに高麗に出兵なんてしたら
九州がガラ空きになるわな。

高麗駐屯のモンゴル軍を壊滅させても、それじゃあ
日本遠征の予防にはならんわ。

47: 名無しさん 2013/10/03(木) 20:52:30.78 0
鎌倉幕府による高麗征伐は1276年、1281年、1291年と三度も
企てられながら結局一度も実施していない。
文永の役、弘安の役とも幕府側はほとんど得ていない状況で
御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。
それでも実行に移さなかったのは、対馬海峡を当たって敵地に攻め込むことのリスク
に及び腰にあったからだろう。

48: 名無しさん 2013/10/03(木) 21:05:47.86 i
>>47
>御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
>幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。

これ、単なる妄想じゃん。
幕府からの恩賞は不足していない。
それに高麗の土地は貧し過ぎて恩賞としての価値が無い。

49: 名無しさん 2013/10/03(木) 21:06:36.37 i
そりゃあ、大陸に攻め入って半島のモンゴル軍を
撃滅しても
言葉も通じない民族を統治する労力と
モンゴル軍といつ終わるともしれない
戦争に突入するリスクは考慮されている
でしょう。

ただ、一番鎌倉幕府が本腰を入れていた
一度目は明らかに南宋の滅亡が中止理由だ
とする説が説得力あるね。
高麗に出兵しても、南宋滅亡により江南ルートから
からの侵攻ルートが開かれている。
ここで出兵する戦略的価値は皆無。

二回目は弘安の役の延長。
大陸に逃げ帰ったモンゴル軍の撃滅が
目的だろう。
ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させても
それはいつまで続くかわからない戦争に突入に
することを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかった
と思うよ。
目先の戦果より、長期的な戦略で中止した。

51: 名無しさん 2013/10/03(木) 21:14:25.43 0
不満を持った九州の豪族達が
だったら艦隊なんてつくらせねーよ!
って倭寇が沿岸荒し回るようになったじゃない?

64: 名無しさん 2013/10/04(金) 01:21:20.08 0
二回も同じ所に上陸すること自体アウツだろw

69: 名無しさん 2013/10/04(金) 08:13:21.88 i
>>64
二回とも同じところに上陸していないよ。
一回目は博多の西方の百道原から上陸し
二回目は防塁の無い陸繋島であり、博多の
北方にある志賀島から上陸している。
いづれも日本軍の妨害を受けること無く
難なく上陸している。
で、上陸してからの戦闘で海に叩き出された
のが元軍。

70: 名無しさん 2013/10/04(金) 09:41:34.88 0
>>69
上陸に成功したのに撃退される方がよほど問題だろ
蒙古軍もこの頃には完全に並みの軍隊に逆戻りだな

67: 名無しさん 2013/10/04(金) 07:01:26.74 0
そもそも元寇なんてもともとの作戦自体が無謀だったんじゃないの?
日本が震え上がって自分から降伏しない限り、鎌倉武士団がもう少しだらしなければ元軍がもう少し九州の奥深くまで一時的に進軍できるかどうかってだけで、どの道最後はああいうことになるのはやる前から決まっていたも同然な気がする。
20世紀に入って、当時世界最強の海洋帝国のはずのイギリスもガリポリで格下のトルコ相手にボロ負けしてるし、敵前上陸作戦なんて余程の圧倒的な海上輸送能力や航空支援がない限りめったに成功するものじゃないってことでは?

68: 名無しさん 2013/10/04(金) 08:05:19.04 i
敵前上陸なんてしてないよ。

元寇は文永の役にしろ弘安の役にしろ
上陸してから戦闘が始まっている。

例えば、秀吉の朝鮮出兵なんて文永の役より
兵力の少ない小西隊1万8700がたった20日で朝鮮の首都
漢城まで進撃している。

元寇はただ単に元軍が日本軍に比べて戦力で劣っていた
ってだけの話なんだよ。

71: 名無しさん 2013/10/04(金) 09:55:05.19 i
並の軍隊では無く、間違いなく元軍は
強かったよ。

同じ渡海侵攻でも、三別抄の珍島、済州島を
落としているし、樺太の渡海侵攻でもアイヌを樺太から
駆逐し、ジャワ島のクディリ王国を渡海侵攻で滅ぼしてる。

渡海作戦でも元軍は強かった。

72: 名無しさん 2013/10/04(金) 11:54:24.42 0
野戦砲も固定砲台もない時代なんだから、上陸自体は簡単だろ

73: 名無しさん 2013/10/04(金) 12:45:49.13 0
日本人はほんとに強いんだなー

74: 名無しさん 2013/10/04(金) 13:54:11.85 0
博多と下関に同時上陸し六波羅からの増援を阻止しつつ
その間に九州諸侯軍を各個撃破すればよかった
全盛期のモンゴル軍ならこの程度の戦略は朝飯前だったろ

76: 名無しさん 2013/10/04(金) 14:14:13.60 0
>>74
モンゴル軍の全盛期は弘安の役だよ。
チンギス汗死亡時には総兵力12万9000騎でしかなかったんだから。
博多と下関に兵力二分したらモンゴル軍の方が六波羅軍と九州諸侯軍に
各個撃破されちゃうな。

77: 名無しさん 2013/10/04(金) 14:25:08.77 P
鍛冶屋の生産能力の差だろう、モンゴリアンに勝ったのも露西亜に勝ったのも

81: 名無しさん 2013/10/04(金) 15:16:35.28 O
飛鳥奈良時代に一応まともな軍隊があっただけで
平安時代に元寇があったら死んでただろう

88: 名無しさん 2013/10/04(金) 19:45:40.93 i
同規模の軍を動員し、同じ対馬海峡越えの作戦なのに秀吉軍は短期間で漢城平壌を占領し、
7年間も朝鮮半島に居座って、一方のモンゴル軍は大宰府にも到達できずにフルボッコ。
何でこんなに差があるのかね。

91: 名無しさん 2013/10/04(金) 19:57:43.95 0
温暖地域の軍隊が乾燥した寒帯地域に深入りするのは自滅行為だって
ばっちゃんが言ってた

106: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:08:18.14 O
公卿に寄生しながら国司の美味い汁を吸ってた屑みたいな平安時代の武士共と
鎌倉時代の武士が上手く結びつかない

107: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:13:37.59 0
世界最大の地上軍を擁する国・モンゴル帝国
世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府

110: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:37:31.15 0
>>107
>世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府
東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
元軍や高麗軍相手に防衛戦争に勝っただけで世界最強とか(笑)

112: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:50:56.22 0
>>110
元軍も高麗軍も東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
日本からの襲撃に全く歯が立たなかったんだけど・・・

『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、
城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』
(論倭)

『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。』(太平記)

113: 名無しさん 2013/10/05(土) 00:44:51.07 0
>>112
そりゃ、倭寇による襲撃は、
いつ、どこからくるかわからないから
対策の取りようがないしな。
元寇のように敵の待ち構えているところに
襲撃してくるのとは違うだろ。

114: 名無しさん 2013/10/05(土) 00:59:54.97 0
>>113
いつ、どこからくるかわからなくないよ。
日本と元との交易は基本慶元府でしか行われてなかったから、
元側も軍を置いて備えていた。
倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。

108: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:19:03.75 O
鎌倉武士にまともな攻城兵器とか無いだろうけどな

109: 名無しさん 2013/10/04(金) 23:25:46.14 0
>>108
ところがモンゴル帝国の明州城は1309年に日本からの襲撃で焼け落ちてるんだな

116: 名無しさん 2013/10/05(土) 11:24:51.11 0
モンゴルも日本もほとんど弓騎兵オンリーの兵制だったから、軽装にしてもたいして機動力を稼げない日本の地形ではより重装の鎌倉武士のほうが有利だっただろう。
同じく地形の問題で飛距離が長い複合弓の効果は限定的で、矢が重く殺生力の高い和弓のほうが有利。
さらに攻撃三倍の法則を考慮すると、兵の補充もきかない元軍にはどのみち全く勝ち目のない勝負だったと思われ。

117: 名無しさん 2013/10/05(土) 11:58:25.55 0
モンゴルの馬は扱いやすくするために去勢されていたのに対して、日本には馬を去勢する習慣はなかった(そもそも武士は気性が荒々しい暴れ馬ほど名馬として好んだらしい)
そういうの乗り回していた割に落馬事故死の話をあまり聞かないってことは、実は鎌倉武士の乗馬技術は本家騎馬民族以上だったのかも。

122: 名無しさん 2013/10/05(土) 13:24:53.07 0
>>117
和式馬具の鐙はユーラシア大陸で使用されてる鐙より大幅に進歩してるからね

123: 名無しさん 2013/10/05(土) 13:56:11.78 0
サムライは異常な攻撃力と防御力を持つ中世のガルキマセラ
皮の鎧を纏っただけの兵士では一撃でゲームオーバー

145: 名無しさん 2013/10/06(日) 02:03:15.57 0
台風慣れしてて対応が良かったとかの話も

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